プロローグ

 

まるで幻のような漫画家だった


小六・55年11月号

三町半左と書いて「さんちょうはんざ」とルビをふる。やせ馬ロシナンテにまたがった騎士ドン・キホーテの従者サンチョ・パンサをもじった名とわかる。なつかしの少年漫画といった雑誌記事にも登場することのないまぼろしの漫画家である。

 『少年倶楽部』と『少年マガジン』のあいだの『少年クラブ』の時代、昭和30年前後に活躍し、突如消えてしまった。

 昭和26年、わたしが小学五年のとき、手塚治虫の「鉄腕アトム」の前身「アトム大使」がはじめて『少年』に載った。その1ページ目はカラー刷り(当時の言葉でいえば「総天然色」)で目を見張ったのを鮮明に憶えている。

 そのころ、仲間うちのヒーローは『冒険王』に連載された福井英一の「イガグリ君」だった。作者が急逝し、「赤胴鈴之助」も武内つなよしに引き継がれたが、シャープなペンさばきの福井英一が好きだった。柔道もの、剣道もの、野球もの、どれももうこれには勝てないという強豪がつぎつぎ現われ、毎号手に汗を握り、次号を待つというパターンだった。

 三町半左は、時代漫画である。顔の造形が極端にデフォルメされていた。映画的な場面転換を得意とした。コマの中の空白の取り方が斬新だった。疾走するといった場面が多く、スピード感があった。

 たとえば、南総里見八犬伝。わたしはまず紙芝居で知り、次いで東映映画で楽しみ、そして三町半左の漫画でこの伝奇ロマンを満喫した(のちに山田風太郎の小説でも楽しんだが)。そして「天兵童子」「秘剣小鳥丸」といった作品の数々。

「天兵童子」第2部・小六・556月号付録

 けれど同級の友人たちはだれも三町半左を知らないという。当時のわたしは漫画家志望だった。しかし三町半左という天才が現われたため、わたしはあきらめたのだった(という記憶を作ってしまっている)。

 昭和20年代の少年クラブ、少年、少年画報、冒険王、野球少年、おもしろブック、漫画少年、譚海といった雑誌をなつかしむのに、島田啓三、倉金章介、馬場のぼる、杉浦茂、山根一二三、そして樺島勝一、伊藤彦蔵、小松崎茂、山川惣治、福島鉄次、永松健夫とみんな知っているのに、三町半左は知らないという。

三町半左の自画像=絵本「ゆめうり ポンチ」とびら

 三町半左は、ある日現われて、数年ののちとつぜん消えた。天才は夭折したのか。

 いま改めて考えると、三町半左の作品は原作があるものが多い。当時は、漫画はオリジナルに決まっていて、作と画の分離は「月光仮面」あたりからではなかったか。戦前の作品を漫画化するという作業は、少年雑誌の週刊化とともに、もはや時代にあわなくなったのかもしれない。

 大宅壮一文庫の人名索引にも三町半左の名はなく、まぼろしの漫画家を求めてロシナンテにまたがったドン・キホーテのように古本屋を巡礼するわたしの長い旅が始まったのである。


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