第2部

 

 

 

三町半左の謎を解く

 

1950年代に活躍し突如消えたまぼろしの漫画家・三町半左を追い、ネット上で流布している三町半左=白土三平説を否定する決定的証拠をスクープしてから半年、わが探偵団の仕掛人N、司書探偵A、漫画探偵B、ネット探偵Cの面々がふたたび集結した。と言っても一緒に飲もうという集まりですけどね。それぞれの後日談が始まったが……。

 

8・再 

ここにも                  

ファンがいた

 

 

●仕掛人N 昨年10月、11月にまぼろしの漫画家を追う調査をし、本年3月末に「RANDOM」に掲載。なにか反響はあっただろうか。

●漫画探偵B まず前号のあらすじのつもりで、三町半左を「まんが界の写楽」とした訳を整理しておこう。

 第1 三町半左は昭和30年前後に登場し、数年後突如消えてしまった。東洲斎写楽は寛政6(1974)年5月に登場し、1年後に消えてしまった。

 第2 三町半左は生年月、本名、経歴など不明。このため40年後の今も白土三平説が流布している。写楽は謎の浮世絵師として経歴のいっさいが不明。このため200年後の今も、能役者・斎藤十郎兵衛など30人ほどが擬せられている。

 

 第3 三町半左は「義経物語」などリメーク版や絵本など絵柄の変化があり、すべて同一人物の作か疑問。写楽は、大首絵、全身像など三度大変化しており、前作のアレンジもあり、とうてい同一人物の作とは思われない。

 第4 三町半左は時代漫画でその画風は映画的手法をとりいれ最先端だったが、のちに現代物では魅力は薄れていた。写楽は当時異様な新鮮さの役者絵でスタートしたが、たちまち同人物と思えない凡作になった。

 という訳で、まんが界の写楽としたが、謎を追ううちに実は三町氏は今もご健在と分かり、ご本人の「少年の頃の夢は、そのままそおっとしておいた方が良いのでは」というコメントで、探偵ごっこは終ったのだった。

 

●ネット探偵C われわれのスクープはネットで公開しなかったので、最近もこんな動きがありました。

 漫画家・時代劇映画ナビゲーターの中田雅喜氏の「美剣士」サイトというのがあって、そこに……。

三町半左? ME氏 030308 

 私が小学生の頃、学年誌によく時代物漫画を描いていた三町半左という漫画家がいました。ちょっと思想性もあり、子供心にとても印象にのこっていますが、いつのまに見かけなくなりました。最近、三町半左とは白土三平の昔のペンネームだったという話をきいたのですが、本当でしょうか? どう考えてもそんなはずないですね。思い出してみても絵のタッチがちがうし。三町半左はそれなりのビッグネームだったのに、わざわざペンネームを変える意味もない。誰かが思いつきで言いだしたガセネタでしょうね。

Re・ 三町半左? NA氏 030309

 一応うわさでは白土三平ということになっていますね。私はそれを見たことがないのでわからないのです。まわりに聞いて調べようと思っているところです。

 

 で、私はこんな書き込みをしてみました。

三町半左のこと ネット探偵C 030415

 MEさんの「三町半左?」が目にとまりましたので、ちょっと書き込みを…。三町半左は、白土三平だという説が流布していますが、これは別人です。その証拠は、三町半左の絵本「ゆめうりポンチ」(昭和405月・岩崎書店)の奥付に、「三町半左、1928年、埼玉県生まれ、1952年にデビュー」といった内容の記述があります(白土三平は、1932年東京都生まれ、1957年にデビュー)。同書は、都立多摩図書館に所蔵されています。

 

初期の名作「山中鹿之介」小六・548月号の一コマ。絵はまだ幼くピュア。

 ME氏からのメール 030415

 三町半左氏、白土三平氏、共に大好きな作家だったので、なんとか真相を知りたいと思っておりました。おかげで疑問がとけました。

 三町半左の作品は私が小学生の頃、小学館の学年別学習誌の付録で「児雷也」や「山中鹿之介」等を読み、そのいくつかのシーンが今でも記憶に残っております。また白土三平は貸本屋で三洋社刊の「忍者武芸帳」を見つけて以来、「カムイ伝」を読むためにガロを買い続け、共にリアルタイムで親しんだ作家です。それゆえ三町半左=白土三平説を知ったときにはとても衝撃的でした。「まんが界の写楽・三町半左の謎を追う」とは、オールド漫画ファンにとって、とても興味がわくタイトルですね。

 

Re・ 三町半左のこと ME 030421

 さっそく御誌をお送りくださりありがとうございました。おかげさまで懐かしい三町半左氏の謎がとけました。小学生は漫画を楽しんでも作家の名前などおぼえないのが普通なので、作品を発表しなくなれば忘れられてしまいます。だから同年輩の友人に言っても誰も覚えていなかったのです。当時私が好きだった三町半左作にこれほど思い入れを持つ皆様が居られたと知って、とても嬉しく思いました。

 

 以下、ME氏の話。

 私が子供の頃は一人で何誌もの子供雑誌を購読させてもらえる時代ではなかったので、自分が買ってもらっている一誌を友人達に順に貸してはその子がとっている雑誌を借りるという雑誌貸借網システムができておりました。

 どの雑誌を購読しているかはその子のキャラクターを見れば何となく想像がつきました。小学館の学年誌をとっ

ているのは、中流家庭で両親がしっかりした、あまり目立たなくて大人しい子が多かったようです。

 小学生時代の私のご贔屓漫画家は手塚治虫、馬場のぼる、三町半左、野呂新平、杉浦茂、等…でした。私は鉄腕アトムの手塚フアンだったので『少年』を購読しており、小学館の学習誌を購読している友人から三町半左作品が載っている号や付録を借りていました。

 とても懐かしい企画を楽しませていただきました。今後の希望はどこかの出版社が御誌の企画に注目して、「三町半左作品集を出版してくれることですね。

「まんが界の写楽」という言葉は出版人なら食指をうごかしそうですが……。


左から、野呂新平、杉浦茂、手塚治虫、馬場のぼるの作品






9・超        

手紙がきた

 


「義経物語」(59年)の一シーン

●仕掛人N さて、お世話になった双団平氏に前号をお送りしたのだが、すぐに双氏から三町氏にも渡しましたと電話をいただきました。師匠もたいそう喜んでおられますと。まさかご本人が読まれることを想定していなったので、それならもう少し書きようがあったのにと冷汗がでました。

 

 

●漫画探偵B えっ、三町氏があの記事を読んだ?

●仕掛人N そう。驚くべきことに、その後、当の三町氏から手紙をいただいたのです。

●漫画探偵B うーん。なんという展開…。


「義経物語」小学六年生付録・59年1月号(上)の終わりのページの墨染めの衣が、2月号(下)の最初のページでは白い衣のまま。塗りつぶし仕上げる時間がなかった? 奥付や頁番号もない。また1月号・2月号ともページ数不足で、別人の作品が併録されている。しかし三町半左のペンは冴えている。締切りをめぐって編集者との壮絶なバトルがあったかも…。

●仕掛人N 驚くやら嬉しいやら。みなさんに調査していただいた甲斐がありましたよ。それは「好意にみちた取り扱いに、せめて消えたわけくらいは報告申しあげる義務があろうと思って」とのこと。以下、抜粋。

 

 私が漫画家になったのには、こんな事情があります。昭和27年、ようやく肺結核の小康をえて退院し、さて、と見まわし当時就職難で、「死病」を抱えた若造に職場はなく、思いあぐねて知り合いの医師に「ものを書いて生きていきたい」と、どこぞへの紹介を懇請したところ、くだんの先生は、私が地域の新聞に時おり頼まれて、見よう見まねの漫画やカットを描いていたのを見ていたのか、小学館の編集局長へ「漫画家のタマゴを育ててやってくれんか」と声をかけられた。

 やがて医師先生が、「話しといた。四コマ漫画ととかいうのを二、三枚描いて、いついつ来い、と言うとった」と。

 ものを書くというのは小説を、というつもりだった私と医師のいきちがい。ま、出版社に出入りしておれば、そのうち小説を書くチャンスもあろうか、と生来いいかげんな性格から、ふわふわと漫画を描き始めただけ。絵はもちろんデッサンすらやったことのない身に「描く」ことは苦行でした。下手さかげんは、格段に絵の上手い白土三平氏と同一人どころかではありません。聞いたら彼が呆れるでしょう。

 いまヘタウマ漫画とかがありますが、逆の、下手がうまくみせるのは(不可能なのですが)並みの苦労ではなく、ひとが一回で描くものを三度も四度も描きなおし、で、何度か喀血をくり返し、また描いては血を吐きで、やはり生命が惜しいらしく漫画をやめました。思うに、小説だったとしても同じ結末をみたと思います。

 

●仕掛人N うーん、これはたいへんなご謙遜ですね。そのまま受け取っていいかどうか……。三町半左の魅力は、映画的な場面転換が斬新。当時、テレビもなく、アニメーションもない時代。まったく新しい画期的な手法だったと思います。疾走するといった場面が多く、スピード感があった。そして、コマの中の空白の取り方も従来になかったと思う。さらに漫画でしかできない遊びがありました。当時としては極端にデフォルメされた人物の顔を魅力的だった。

 突然あらわれた天才と思っていたから、文字通り血を吐くようなご苦労があったとは思いもよりませんでしたね。

●司書探偵A なぜ三町半左が知られていないのかの疑問は、前回の調査で活躍の舞台が小学館の雑誌に限られていたことで納得したのですが、この手紙でなぜ小学館だけなのかの謎が解けましたね。

 小学館の学年誌は話題にしにくく、『冒険王』とか『少年画報』に掲載されていれば、現在も埋もれるといった状態にならなかったと思います。たとえば創業50周年記念の『少年画報大全』(2001年)では、多くの消えた漫画家たちが収録されている。

 

●漫画探偵B 横井福次郎は、昭和23年、36歳で死亡。ふしぎの国のプッチャーは、小川哲男に引き継がれる。

 

 井上一雄は、昭和24年、35歳で死亡。バットくんは福井英一に引き継がれる。

 その福井英一は、昭和29年、過労で急死、33歳。赤胴鈴之助は連載第2回から武内つなよしに引き継がれる。 河島光広は、昭和36年、30歳、肺結核で死亡。病床で描き続けられたビリーパックは矢島利一に引き継がれる。

 当時、死因のトップは結核。死病と恐れられていたし、アシスタント制はなかったからねえ。三町氏が漫画と決別した事情も分かるね。

 

左上・横井福次郎「ふしぎの国のプッチャー」、右上・井上一雄「バットくん」、左下・福井英一「イガグリくん」、右下・河島光広「ビリーパック」

●司書探偵A 私はその後手紙を2本書きました。

 一通は都立多摩図書館長あて。コピーを送っていただいたお礼と、絵本「ゆめうりポンチ」は貴重だから古本だといってくれぐれも廃棄処分することのないようにとのお願いの手紙。ま、その後、この本は大阪府立国際児童文学館、国立国会図書館も所蔵していることが分かりました。

 もう一通は、所沢図書館長あて。所沢市には、「はだしのゲン」の中沢啓治氏、タレントとしても活躍している蛭子能収氏も在住、講談社新人漫画賞の高橋美由紀氏は出身地でもある。

 一般に図書館では漫画を蔵書としないが、閲覧・貸出し用ではなく、郷土関連書籍という観点からは、その代表作を収集することは可能ではないでしょうか。

 三町半左という漫画家のことを調べていたのですが、氏が所沢市出身で、今も所沢市でご健在ということが判明しました。一度接触されてはいかがでしょう。もしかしたら作品を寄贈していただけるかもしれませんし、戦後の少年漫画で活躍さた方が、地元の所沢でも知られず、このまま埋もれた状態でいることは残念でなりません。

 なお今回私が収集した三町半左の作品を貴館に寄贈する用意があります。云々。

 残念ながら、返事はいただけませんでした。

所沢市ゆかりの中沢啓治、蛭子能収、高橋美由紀の作品




10・終 

三町=白土説の

犯人を見つけた

 

 

 

当時画期的だった映画的手法による疾走感あふれる画面。「秘剣小鳥丸」小六・565月号


 さて、いよいよ最後の疑問。なぜ三町半左=白土三平同一人物説がネット上で流布したのか。例はわるいが、新型肺炎でいえばスーパースプレッダー、毒王は誰か。司書探偵A、漫画探偵B、ネット探偵Cの合同調査で一つのルートが見つかった。

 漫画研究家・清水勲氏の著書に『本にみる漫画の歩み(上下)』がある。昭和62425日・日本古書通信社発行。たて10cmよこ7cmの豆本である。そこにこういう記述がある。

―山中鹿之介 三町半左 昭和29年 『小学六年生』付録

「忍者武芸帳」などで知られる白土三平がデビューする前に、階級思想をテーマとしたストーリー漫画としてこの作品がある。画も構想もすぐれた佳作である。

 

 

 次に、読売新聞東京版夕刊、マガジンラックという漫画についてのコラムに「漫画の歴史」豆本に、という見出しでこの本が紹介されている。昭和6257日付。

 

――幕末、明治期の漫画雑誌から昭和30年代に出版された単行本まで、多くの作品を取りあげて、その内容と漫画史上における意味を解説したもので、ワーグマンの「ザ・ジャパン・パンチ」、「団団珍聞」をはじめ、白土三平のデビュー前の作品である三町半左「山中鹿之介」なども紹介されている。(幸)

 

 この(幸)という人の早とちりである。これでは白土=三町同一人物と解釈されても仕方がない。清水勲氏の趣旨は、階級思想をテーマとした白土三平が評価されているが、それ以前に三町半左という漫画家がいた、ということ。このことは前号の冒頭に紹介した。それを(幸)氏は同一人物と勘違い、またはそういう誤解を生む表現をしているのだ。

 次にこのコラムが読売新聞のネット版Yomiuri On Lineの読売新聞データベース「YOMIDAS」によるアーカイブのページに転載された(時期は不明)。

 このためネット上で白土三平または三町半左を検索すると、このコラムに行き当たる。

これをもとに、白土=三町同一人物説を唱える人が出て、ネット上に流布することとなったと思われる。

 

昭和4142年ごろ、所沢市内狭山湖畔での左・三町半左氏(3840歳)、右は甥の双団平氏(23歳)。写真は双団平氏提供

●仕掛人N

 こうして数々の謎が解け始めた5月7日、三町半左の甥御さんである双団平氏が出張で大阪へこられ、短時間ながら楽しく話のできる機会があった。ラッキーパンダによる町の活性化はテーマソングのCDまでできてという話は興味深かったが、ここでは省略。もちろん三町氏の近況もお聞きしました。

 時空を飛び越え、半世紀前の小学生時代をなつかしく検証するためにこの探偵ごっこを始めたが、この先に新たな展開があるのか、まだ空白部分の多い三町半左の調査をゆっくり楽しみながら続けてみたい。

 最後に『小学六年生』昭和3011月号にこんな投稿。「私の家では姉は女学生の友、妹も皆小学館の愛読者です。私は「くれないの曲」が一番好きです。まんがでは「すすめ!ガンテツ」です。両先生によろしく」(広島県安芸郡・美智子)

 こういうファンも懐かしがってくれるだろう。



小学六年生5811月号。「義経物語」の似顔絵コンクール


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