エピローグ

 

1950年代の

少年の頃に還してくれた

 

 

インターネットでの探偵ごっこで、まぼろしの漫画家・三町半左(当初さんちょ・ぱんさ、後さんちょう・はんざ)を追ってから2年が経過した。いまもネットで付録本や『小学六年生』を探しているが、第一部でも紹介した「山中鹿之介」という初期の作品が見つかって、ほぼ付録本は収集し終ったのかも知れない。入手できていないのは、「秘剣小鳥丸」完結編、「八犬伝」第一部、そして刊行そのものが未確認の「児雷也」「少年記者笛太郎」である。もっとも「赤旗」に掲載された連載漫画はどのようなものか未調査である。



みなもと太郎の名著が復刊された

 ところで最近復刊されたみなもと太郎の『お楽しみはこれもなのじゃ――漫画の名セリフ』(角川書店)のなかに、三町半左が登場している。以下引用。

 

 三町半左氏の作品には常に主張がある。『弱者の抵抗』が多くの作品のテーマになっているのであり……えい、ロコツに言ってしまえば白土三平出現より以前に、そういった傾向の作品をひたすら描き続けた作家なのであった。

 にもかかわらず――白土氏がかくも大騒ぎされたというのに――今、三町半左氏を論じようとする人はいない。べつに大上段に論じなくったってかまわないのだけれど、忘れてしまっちゃあ、やはりイカンなァと思うとるですよ。

 学年誌に足かけ三年連載された長編ドラマ「からて王子」から。

 

 「からて王子 にげろ にげてくれ」

 「じぶんの国からにげて どこへ行けるというのだ」

 

 みなもと太郎の三町半左についての文章はまだ続くのだが、わたしが三町半左の作品から名セリフを選ぶとすれば、初期の「山中鹿之介」から、これはどうだろう。鹿之介と仲間の狸、兎、猿たちとの会話である。

 

「お城はどうしてあるの?」

「ン……」

「いくさのとき敵をふせぐためだよ」

「なぜ いくさがあるの」

「ひとをくるしめても えらくなろうとするひとが いるからさ」

 

 と、まあ、それはどうでもいいのだが、みなもと太郎本は本文に注がついており、

 

――ネットで見たら「白土三平の古いペンネーム」なんて情報が一人歩きしている。バカも休み休みに休みなさい。

 

 とある。ここまではいいのだが、

 

――作者略歴=故人。小学館の学習誌や、『赤旗』などに作品を発表する。作品に「山中鹿之介」などがある。

 

 これは困る。故人にしてしまっている。三町半左氏は、1928年埼玉県生まれ。先に書いたとおり漫画の筆は病気のため若くして折られているが、現在も所沢市でご健在である。

 このことは書いていいかどうか分らないが、三町半左氏の本名は山畑儀雄、現在社団法人日本新聞販売協会会長として、新聞の再販制度問題に取り組んでおられる。

 本来なら所沢へお伺いしてインタビューをしたいのだが、本書はインターネットで探偵ごっこというよからぬ発想で始めたものだからちょっと遠慮している。というより子どものころの憧れは、すこし謎を残しておくのがいいのではないか、と思っている。三町半左氏については、甥の双団平氏が漫画家としてバトンを引き継がれておることもあり、双氏がいずれ書かれるだろうと期待している。

 三町半左にはまことに残念ながら絵本以外の単行本はなく、ファンとして漫画本の復刻が夢である。それにしてもこの探偵ごっこを通じて、三町半左が1950年代の少年の頃に、私たちを還してくれたのだった。

 本書の元になったのは、私が友人たちと始めた「高齢予備軍の遊び探しマガジン・RANDOM」の特集記事である。それは「始めての遊びにグループでトライする。要は仲間を募って遊ぼう」という毎号の特集記事で、俳句をつくろう、ホーム・コンサートをやろう、近くへ行こう、などの企画のなかの一つ、インターネットで探偵ごっこ、として生まれたものである。この「RANDOM」プリント版は8号をもって終刊し、ネット版に移行し、イベントとしての吟行・句会とともにほそぼそと続いている。当初の企画の性格上、インターネットのホームページから断りなくさまざまな引用をしており、このたびも出版にあたりご了承を得たわけではなく、したがって「私家版」とした。最後に、2年間にわたり夢さがしにつきあっていただいた司書探偵、漫画探偵、ネット探偵の三人、そして双団平氏。ありがとうございました。



左・1958年6月号、それからほぼ半世紀を経た右は2005年6月号の「小学六年生」。実は「小学六年生」は1922年の創刊。




補遺1

 

それからのこと――

「三町半左――まぼろしの漫画家の謎を追う」は、200510月、私家版として200部印刷した。版下まで手作りの本のため(とくにインクジェットプリンターでつくった版下は写真がひどい状態になる)、まことに不本意な出来上がりであった。

収集した三町半左の付録本26冊、掲載されている「小学六年生」など14冊も死蔵にならないよう双団平氏に引き継いだ。




本書でみなもと太郎氏の「お楽しみはこれもなのじゃ――漫画の名セリフ」を取り上げているので某出版社を通じ氏に送付した。はからずも氏からメールをいただきたいへん恐縮した。ご迷惑ついでに一部を引くと……。

 

――一応、S40年代以降のマンガ研究書で三町半左氏を取り上げたのは私が最初だとは思います。〔…〕当時から現在まで、三町氏を述べた私の小文に「おー、懐かしいなァ」と強く反応してくれた人物は漫画家の高信太郎氏ただ一人で、あとは99%が知らない、他にマンガ研究家数名が「知っている」という程度ですね。〔…〕

私の小学生時代は、20年、21年、22年生まれの、3年分の「小学館の学年誌」を読破していたわけで、そのあたりに三町半左の活躍期が偶然重なっており、氏のマンガは殆んど読んでいるのかも知れません。

中学時代、職員室に「赤旗」が置いてあり、そこで一度だけ三町作品と再会しています。

月夜の波打ち際、岩の上で白刃に囲まれた眠狂四郎風の剣士が敵に静かに語りかける場面を記憶していますが、セリフもタイトルも憶えておりません。

「ゆめうりポンチ」は貧乏な修業時代で、買えずに立ち読みしております。

手許にある別冊付録は「葉がくれの王者」のみ。も一度読みたいのは「日本のたける」ですね。

 

 なお、脚注で故人としてしまった経緯の説明があり、「もし三町先生に会われる事が御座いましたら、宜しく、お詫びを」とのことだった。

 私家版とはいえ、氏の著書から勝手に引用し、「故人」云々と記述したことはまことに申し訳なく、「実作者で三町半左を取り上げた唯一の人」として記述すべきでした。

 当の三町半左氏からは以下の手紙(2005.09.15)があった。

――「漫画の名セリフ」をさっそく取り寄せて拝見しました。「故人」にはニヤニヤの思いでした。戦争で(少年飛行兵だったもので)死にそびれ、肺結核で死にかかって、いま死んでいても可笑しくない年齢になって「故人」はいささかも奇異ではないな、と思ったものです。 



どちらも画面に作者が登場する。上・手近治虫「鉄腕アトム」641月号。単行本化にあたってなぜか削除されている。(小野卓司「描きかえら『鉄腕アトム』」)下・三町半左「義経物語」592月号。

本書初版(2005.10.1)以後も「風雲たねがしま」「児雷也」「謎のひさご党」など入手した。「鎮西八郎為朝」は小六・昭和2910月号付録は、9?13センチのポケット版で珍しいサイズである。


★「収集した三町半左の付録本26冊、掲載されている「小学六年生」など14冊も死蔵にならないよう双団平氏に引き継いだ」と以前書いたが、その後「秘剣小鳥丸」完結編、「八犬伝」第一部など8冊を入手した。

 

★『わかもの』という雑誌(共産党系?)は、1967年、創刊10周年を記念しページ数を増加、まんがも連載もされるようになり、三町半左「あれは斉太郎」が掲載されたという。掲載年月不明。

 

★「むうくん'sPage──まんが界浮遊日乗」

というブログに三町半左の作品がいくつかストーリーを含め紹介されている。たとえば「天草四郎」では、「絵柄の躍動感が凄い。55年〜56年にかけて最良の動きを描いた作家といって間違いない。ヒーロー、ヒロインの地味さがその後の発展を許さなかったんだろうが残念。三町さん名を知った『お楽しみはこれもなのじゃ』で紹介された「からて王子」もなかなかの作品だがもう一年後の「義経物語」もいい。二年前の「天草四郎」はシリアスとギャグが同居している」などと。

 

http://toppycappy.cocolog-nifty.com/muukun/

 

★『昔おもちゃ』という紙ふうせん、紙ずもう、うつしえ等の入った明治ブルガリアヨーグルトの販促用粗品があり、「失ないたくないもの」という三町半左の短文が写真入りで印刷されている。同ヨーグルトの発売された1973年のものと思われる。

 

補遺2 

少年時代に憧れた漫画家が2019年1月、90歳で死去された

 

 私が漫画家になったのには、こんな事情があります。

 

 昭和27年、ようやく肺結核の小康をえて退院し、さて、と見まわし当時就職難で、「死病」を抱えた若造に職場はなく、思いあぐねて知り合いの医師に「ものを書いて生きていきたい」と、どこぞへの紹介を懇請したところ、

 

くだんの先生は、私が地域の新聞に時おり頼まれて、見よう見まねの漫画やカットを描いていたのを見ていたのか、小学館の編集局長へ「漫画家のタマゴを育ててやってくれんか」と声をかけられた。〔…〕

 

 ものを書くというのは小説を、というつもりだった私と医師のいきちがい。

 

ま、出版社に出入りしておれば、そのうち小説を書くチャンスもあろうか、と生来いいかげんな性格から、ふわふわと漫画を描き始めただけ。

 

 絵はもちろんデッサンすらやったことのない身に「描く」ことは苦行でした。

 

 

 当方が少年時代に憧れていた漫画家三町半左(本名・山畑儀雄)氏が、2019116日、90歳で亡くなられた。氏の甥である双団平氏から電話をいただき知った。

 

 以下、私事のみ綴る。

 

 当方が定年退職したとき、その開放感を満喫しながら、やりたいことを考えた。その一つが昭和30年代、月刊少年雑誌全盛時代に活躍し、そして突如消えてしまった漫画家三町半左の謎を追うことだった。

 

三町半左と白土三平とが同一人物であるとの説が流れたのは何故か。

 これに関しては本書に詳述した(ほぼ当たっていると思う)。

 

・三町半左が小学館の学年別学習誌にしか登場しないのは何故か。

 これは上述の氏の発言(氏からいただいた手紙による)の通り。

 

三町半左が突然消えたのは何故か。

 上掲の続きにこういう記述がある。「ひとが一回で描くものを三度も四度も描きなおし、で、何度か喀血をくり返し、また描いては血を吐きで、やはり生命が惜しいらしく漫画をやめました。思うに、小説だったとしても同じ結末をみたと思います」(2003.3.25)と、やや自虐的に語っておられる。

 

 手紙に書かれたエピソードをもう一つ紹介すれば、ある本に「三町半左略歴」の中で「故人」とされていることに触れ、「『故人』にはニヤニヤの思いでした。戦争で(少年飛行兵だったもので)死にそびれ、肺結核で死にかかつて、いま死んでいても可笑しくない年齢になって『故人』はいささかも奇異ではないな、と思ったものです」(2005.9.25)。

 

 本書はもともと『RANDOM』という“高齢予備軍”の同人誌に掲載した「まんが界の写楽・三町半左の謎を追う(正・続)」を基にしたもの。掲載誌を双団平氏を通じ氏にお送りしたところ、氏から雑誌の発行基金にと多額のご寄付をいただいた。その一部を、氏の付録漫画等の収集や本書の印刷費にも充てたことを記しておこう。

 

 子どもの頃、小学館の「小学○年生」、「少年」「少年クラブ」「冒険王」など少年月刊誌を友だち同士で回し読みし、みんなイラスト(当時はカットといった)を描いては投稿し、将来の漫画家を夢見ていた。そこに「天兵童子」などの三町半左が登場し、たちまち魅入られてしまった。一言で表現すれば「疾走する」漫画であった。

 

 いま氏の死去の報に接し、「少年の頃の夢は、そのままそおっとしておいた方がよいのではないかな」という氏の言葉をそのままに、お会いしなかったことが残念でならない。

 

 いただいた4通の手紙を読み返してみると、お会いすることを楽しみにする云々の記述があったことを発見し、なぜ当方が所沢まで出かけ、当時の児童雑誌、少年漫画の話をお聞きしなかったのか、悔やまれる。 

 

「こうやって記録にとどめてくださったこと、なにか棺の上にそっと花束の置かれた気配を感じます」(2003.3.25)とも記されていた。嗚呼。




最後に、フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』の「三町半左」の項があることを付け加えておく。
(了)


★P8

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